そもそも、理不尽な犯罪を犯しながら、逃げ回れば訴追されないとすることは、法律家の作り出した理屈であって、一般国民の正義感、倫理観が許容することではありません。重罪を犯した者の逃げ得を許しますと、国民の規範意識を著しく低下させ、道義が地に落ちる危険があります。特に、凶悪事件の被害者は、当然のことながら、絶対犯人を捕まえて貰いたいとの思いが強いものです。犯罪被害者等基本法第3条は、「すべて犯罪被害者等は個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有する」と明記しています。加害者に対して適正な刑罰が下されなければ、被害者等の尊厳は守られませんし、国家が凶悪犯人を無罪放免にすることは、被害者の尊厳を最も傷つけるとともに、国家に対する信頼を失わせるものです。
こうしたことから、これを許していた公訴時効の制度は平成22年、一定の重大な犯罪についてだけですが廃止され、凶悪事件の犯人を一生処罰可能な状態におくことが決まりました。また、これ以外の罪についても時効期間が大幅に延長されました。
時効制度の理由として従来、次の4点が指摘されていました。
① 長い時間が経過すると被害者の処罰感情が薄れ処罰するだけの価値が小さくなる。
② 逃げている間に犯人が築いた静かな生活は尊重する必要がある。
③ 時間の経過により国民一般の応報感情も薄れ処罰する価値が低下する。
④ 時間の経過により証拠が少なくなり、正しい裁判ができなくなる恐れがある。
しかし、よく考えてみますと、これらの理由が正しいのか疑問が浮かびます。
① 被害者の処罰感情はいくら時間が経過しようと薄れることはありません。
② 理不尽な犯罪を犯した犯人が犯罪後に築いた幸せな生活をなぜ保護する必要があるのでしょうか。一方、被害者はその間、苦しみ続けており、時計の針が事件のときから止まってしまっているのです。
③ 時間が経過しますと一般の人々の事件の記憶は薄れますが、処罰すべきという感情が薄れることはないでしょう。25年が経過すれば、殺人犯でも大手を振って世間を歩くことを良しとするのが国民の常識でしょうか。
④ 証拠が少なくなりますと有罪とすることは難しくなりますが、ご承知のとおり有罪を証明する責任は検察官が負っており、証拠が少ないことは検察官に不利益に働くだけです。逆に、科学技術の進歩によりかえって新たな証拠が見つかることも少なくありません。現に、DNAの制度が格段に上がるなどしたため公訴時効の廃止後、新たに犯人が捕まった例が複数報告されています。
このように制度の理由をみますと、公訴時効の制度は、犯罪被害に苦しみ悩み続けている被害者に対する目線や国民の常識が欠落していたことがわかります。時が経過すれば被害者の処罰感情が薄れるというのは、犯罪に遭わず幸福な社会生活を送っている者の言い分でしかありません。大切な人を失ったり、重い後遺症を負った被害者やその家族の無念さ、悔しさ、怒りはどんなに時間が経っても癒えることはありません。また、犯人が逃げ回っていたときに築いた静かな生活を保護することは、被害者に対して犯人が再び目前に現れることの不安にさらすことを意味します。被害者の安全な生活を犠牲にして犯人を保護する必要などありません。
平成16年に成立した「犯罪被害者等基本法」により、被害者の尊厳にふさわしい処遇が保障されましたが、これらにより徐々に国民の意識が変化し、殺人など凶悪な事件においては事件の真相を明らかにして刑事責任を追及する機会をより広く確保すべきであるとする考えが定着し、時効廃止(刑事訴訟法の改正)に結びつきました。